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父の愛は山のごとく

   20053103分、父は病苦から解放され、故郷より浄土へ旅立った。阮銀太、享年77歳。  

父の若いころ、世の中は混亂のきわみにあった。人民が辛酸をなめた時代であった。抗日戦爭が勃発し、軍閥がはびこり、國共內戦も起こり、抗米援朝の戦爭も発生した。その後も「三反五反」あり、反革命鎮圧あり、大躍進あり、三年に渡る天災あり、そしてしまいには文化大革命までも発生した。父の人生はそのほとんどが混亂と不安と貧困に包まれたものであった。  

聞くところによれば、私の曽祖父はアヘン依存癥で、そのため家が沒落してしまったそうだ。文革中は、いくばくかの資産があり、わずかでも教育水準が高ければ、「土地獨占者」とか「富農」とかのレッテルを貼られてとんでもない目に遭わされたものであったが、父は貧農だったため、その難を免れることはできた。とは言っても、それでもやはり時代の悲劇から逃れることはできなかった。  

1957年以降、中國各地では針小棒大に物事を語る傾向が生まれた。「食糧の1ムー當たりの収穫量は千斤、一萬斤」などというとんでもない水増し成果の報告が、降る雪のようにひっきりなしに中南海に飛び込んできた。農家出身の毛沢東らでさえも現実離れしたでたらめな消息を真に受け、全國各地にはとっくに罹災者があふれていることも知らないままであった。あるいは知らぬ振りをしていたのか。共産黨は鉄鋼の大増産を目指して全國に「大錬鋼鉄」を呼びかけ、原始的な溶鉱爐を用いた製鉄が全國の農村で展開された。全家庭から鉄なべや農具を上納させ、それを溶かして鋼鉄に変えようとしたのだ。

私の郷里もこの災難に巡り合せたことは言うまでもない。村人達はみんな共同の大食堂で食事をとるしかなかった。なんといっても家の臺所に鍋がないのだから。すべての人が平等にたらふく食べられるわけではなかった。生産労動に參加する人には一杯の白飯が與えられたが、それ以外には薄いかゆしか配られない人もいたのだ。

私の一番下の叔母は、働きながら生産隊で指導者を大げさに褒めちぎる革命歌を歌わせられたが、そのおかげで白飯を他の人より多くもらえた。叔母さんはこの白飯を袋に詰め、數日おきに家へ帰ってきた。年取った親にそれを食べさせるために。おばあさんは空腹で両足がむくみ、歩けなくなっていた。私の父は飢餓に耐えきれず江西や湖北、近くの望江県を転々とした。その兇作続きの時代には、老人と子供以外はみなほとんどがどこかへ出て行き、命からがら逃げたのだ。生産隊は逃走者の家族に厳しい報復政策を科し、逃走家庭への食料供給を制限した。私の祖父は両眼とも失明していたが、共同食堂からかゆももらえず、その上病魔を振り切れずに、その後無殘にも飢え死にした。

父を思い出すと心の中がホンワリと暖かくなるのは私と同年輩の人なら誰しも同じだろう。ある友人は、父と一緒なら、それが避難行であっても安心感があったものだったと言った。荷物はすべて父親が背負い、父についていればご飯が食べられたのだから。當時は列車も車もなく、避難するには自分の腳にたよるしかなかった。わらじ履きに竹かごを擔ぎ、父は食を求めて同年輩の村人と一緒に山を越え、川を渡る長旅をした。  

共産黨は農民革命によって政権を樹立し、50年代後期に古今未曾有の戸籍法を公布した。中國公民を農業人口とそれ以外に區分して、農民が自由に移動することを厳しく制限したのだ。父はその時、仲間と江西へ避難しようとしていたが、「出境許可証」を持ってなかったため辺境で阻止されてしまった。父たちは許可を取るために慌ただしく太湖県政府のある町まで引き返すはめになった。両足にわらじを履き、両肩に重任を背負って、風の中を行き、雨の中を戻り、一日に50キロの道のりを奔走したそうだ。

その飢きんの頃にも若者が老人を敬い、禮儀を重んじる良き習慣はまだ殘されており、世間には素樸さと和やかさがあった。避難の身にあっても、父は仲間の世話をやき、手に入った食料はみんなで分け合った。おばあさんは自分も空腹をかかえて栄養不足で両足がむくむほどだったが、それでもわずかばかりの食料を隣近所の老人と分け合って食べた。自分さえよければ他人はどうでもいいというような、現在の富を得て仁を忘れた金銭萬能の社會とははっきりと違う気風があったのだ。  

1957年以降、「闘爭哲學」は次第に儒教思想を粉砕していった。文化大革命中、他人を告発すればその功績が認められたし、他人を中傷すれば賞賛されたし、造反者は出世できるとされた。父の友人の戴さんは右派のレッテルを貼られてしまい、周りの親戚知人から村八分にされた。みな自分の身を守ることしか考えず、知らぬ振りを決め込んでいた中で、父だけは以前と変わらずその一家と一緒に食事をし、薪やブタを買えるように手伝ってやった。戴さんは私を見かけるといつも、「おまえの父さんと私は苦楽を共にした仲だ。周りの人は私に知らん振りするけど、おまえの父さんはまったく損得勘定をしないよ」と言ったものだ。  

70年代初頭、中國の農村では相変わらず人民公社の一律待遇制が行なわれていて、活気のない停滯狀態にあった。我が家では老人も子供もようやく生き長らえていた。祖母は長患いで寢たきりだった。その祖母に1口の砂糖水を飲ませるために、終いにはテーブルやイスまで売ってお金に換えた。父が店の店員に頭を下げて売ってくれるように頼むのも毎度のことだった。當時は配給制で、砂糖を買うには砂糖用配給切符が必要だったし、油を買うにも食用油配給切符がなければなかったのだ。父はおばあさんのためにひざまずかんばかりにして人に頼み込んだ。

私が子供の頃、我が家はひどく貧しく、やっとのことで毎日を過ごしていた。授業料を払えるだけのお金はなかったが、父はそれでも私と上の姉を學校に行かせてくれた。父は百里も離れた山や林へ行き、薪を拾って來た。ある時、山を下る時に、父はばったりと転んでひざの皮を破ってしまった。背中の薪はずしりと重く身體を押しつぶしたが、やっとのことでむくりと起き上がり、また薪を背負って歩き出した。もうすぐ學校に著こうという時、1人の退役軍人が親切にも父にたばこを1本くれた。父はお禮を言ってたばこを大切そうにポケットにしまい込んだ。そのたばこは學校で薪を受け取る炊事係に渡された。父は炊事係にお辭儀をしてお禮を言った。この薪は私と姉の授業料代わりだったのだ。

冬が來て雪が舞い、北風が骨にしみるように寒くなっても、私たちは薄い綿入れの服しかなく凍えていた。父はみなに黙って町まで出かけて行き、町の人が捨てるかくれるかした古著や靴をもらって帰って來た。私達はその服を著て、家中で寶物を手に入れたかのように喜んだ。父はとても得意げで満足そうだった。私は、父が町の人々がどんなにして田舎者を嫌がったかを面白おかしく話してくれたことを、そのときの父の生き生きとした表情まで鮮明に覚えている。町の人がどんなに豊かで同情心があるか、あるおばさんがどんなにして肥たごを擔ぐ農民をからかったか、町の人がニラと麥苗を見分けられなかったことで同じ農民仲間がどんな冗談を言ったか。父はいつもその様子を言葉豊かに語って苦難の生活を楽しさに変えてくれた。去年の冬、私は上海の會社の前でぼろぼろの服を著た老人が廃品回収の大八車を引いているのを見かけた。身を切るように冷たい北風の中で、彼の顔は感覚が麻痺して固まってしまい、震えが止まらないほど凍えていた。父もあの頃はそれと同じだったのではないか?  

人民全體が「愚公移山、改山造田」のスローガンを口にして開墾に努力を重ねていた頃(客観的に言えば中國共産黨が大河を整備することは、確かに後世に幸福をもたらすことであるが、盲目的に森林を伐採して段々畑を建設したことは、これから水土流失や洪水氾濫が発生する主な原因となるにちがいない)、両親も毎日山の開墾労働に參加していた。晝休みになると、労働者はみんな揃って食事をした。私は晝休みには學校から家に帰らず、その現場に行って一緒に食事をした。たっぷりよそわれたご飯を、私はがつがつと貪り食ったものだった。その後、大學に進んでからやっとあの時私が食べたご飯は父の分だったことを知った。父は空腹を抱えたまま午後も働いたのだった。

  中國では地區別大學生募集や階級差別化政策が実施されている。農村の教育施設は立ち後れている上に、農民の子供は農作業と家事を手伝わなければならず、その分學習時間が少なくなってしまうのに、農民の子供の大學受験合格ラインは大中都市の學生(21世紀の現在、差別政策はもっとひどくなっている)のそれをはるかに上回っているのだ。それで農村地區の受験生の合格率はとても低い。普通の農民は子供が大學に合格して土地を離れることを望んでいない。それで、父が娘を學校に行かせると聞いて、周りの仲間はみな笑ったものだった。父はなにも反論せず、しかし頑として意思を変えなかった。子供に進學させるためなら自分は空腹もがまんし、父は十數年ひとかけの肉も口に出來ずじまいだった。父は、自分が千萬の苦汁を舐めれば天は息子を守ってくださると強情に考えていたのだ。  

大學に進學すると、私は自信満々に時の官僚をさげすむようになった。ある晩のこと、家のドアのすぐそばでラジオ放送を聞いていた。それはあろうことか臺灣の番組だった。父はびっくりして真っ青な顔で、私がなぜそんなむちゃをするかとなじった。殺されてもいいのか?と。私はその頃まだほんの若造で血気盛んな短気者だった。どうして父の世代の経験した辛酸を理解できようか?私はみんなの前で父に平然とたてつくというバカをしでかした。「臺灣人の平均収入は大陸人の18倍だからね。いろいろ知っておかないとね」私は家を離れてからというもの、深くものを考えずにしゃべる癖がついてしまって、父はハラハラさせられ通しだった。  

父は何の教育も受けていないが、きな臭さや世間の困窮を嘆くだけの教養は持ち合わせていた。テレビで臺灣海峽の一觸即発狀態にある厳しい局面を見ると、きまってやるせなくため息をついたものだった。そして臺灣問題を平和に解決できないかと私たちに聞くのであった。同じ中國人同士でまた戦爭をするなんて、昔の恨みは忘れるべきで、新たな怨みを生み出すなんてとんでもない、戦爭の被害者はいつだって平民庶民なんだから。父は獨り言のように言った。  

父は伝統演劇や講談がとりわけ好きだった。『楊家將演義』、『天仙配』、『岳家將演義』など、歴史に殘る名作に夢中になっていた。感動すると涙をこらえきれずにいた。いつも「いくら金持ちになっても、地位が高くなっても、金のために仁の心を忘れるようになってしまってはおしまいだよ。たとえば橋梁や道路補修など慈善事業に精を出すようにしなければならないよ」と言った。老人や障害者の物乞いを見かければ、ポケットから小銭を取り出して腰をかがめて與えるのが常であった。  

父はいつも私たちに教えたものだった。今の幸せの根源を忘れてはいけない、と。水を飲む時には井戸を掘った人の苦労を忘れずに、ご先祖さまの恩を忘れてはいけない、と。私は大學へ進むまでは、毎年春節には父と連立って先祖の墓參りに行くのが決まりだった。先祖に対する恩を忘れず、善意から人を助け、恩人に対する感謝の心を持たなければならないと教えてくれた。なにかしてもらったら、それを十倍にして恩返ししないといけない、とも言った。  

最期の20日、父は両眼とも見えなくなった。つばが枯れきってしまい、話をするのも困難になった。急遽故郷へ引き返した私に、父は言葉少なく、かすれた聲で言った。「琴ちゃんはいい嫁だよ、大事にしてやりなさい。お義母さんもいい人だ、よくしてあげないと。子供を叱るのはいいが、毆っちゃだめだ。母さんはフトンをちゃんとかけて暖かくしているかい?気をつけてやってな」父はもっともっと言いたいことがあるに違いないのに……  

私は仕事にかまけてばかりで、あまり帰省しなかった。父に會うともっともらしく自分がいかに忙しいかをまくしたてるのがいつものことだったが、父はなにも文句を言わなかった。命の終わりまで、父はあこがれていた上海に息子と一緒に住みたいと願っていたが、私は毎日いくばくかの金のために個人の損得にばかりこだわって、長年ずっと私のために風をよけ、雨をさえぎってくれ、心配してくれ、黙々と祈ってくれていた親への慈しみの心を忘れていた。  

父さん、ありがとう。幾多の苦難の中で手を盡くして進學させてくれて。私の精神の獨立と自由は、父さんの苦難に満ちた人生の上に築かれたものだ。

父さん、ありがとう。人としてなすべきことを教えてくれて。父さんの厳格なしつけがあったからこそ、私は悪習に身を染めることもなく向上し続ける強い意思を持ち堪えられたのだ。  

父さん、安心して。きっと母さんを大切にするから。姉さんを支え、妻と子供を幸せにするから。これが父さんの深い恩に報いる一番の道だろう。すべての人が自分の両親をもう少し気にかけるように心がけ、老人には根気よく接するようにしてあげられる世になれば、と願う。  

父の一生は、中國ではごくありふれた農民の人生の縮図だ。私は「敬天、惜地、愛人(天を敬い、地を惜しみ、人を愛す)」という理想を引き継いで宣揚して行こう。見返りを求めず、広い心で中國農民の忠実な代弁者となるのだ。國民の文明開化と公平な正義、臺灣海峽両岸の平和のためにいささかなりとも貢獻していかなければならない。

天國で父の魂が永遠に楽しく自由であるようにいつまでも……


 




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